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【書評】決定版カフカ短編集|外的な不条理と感傷の不在について【フランツ・カフカ】

 

 初めて読んだカフカは、新潮社から出ている「変身」だった。世の中の多くの人がそうではないだろうか? 

 あれは高校生のときで、私は軽音楽部に所属していた。ロックバンドという響きに憧れ、大きな声で叫ばれた言葉こそ真実だと思い込んでいた。そこで組んでいたバンドのベースが、フランツ・カフカと顔がそっくりだったのだ。それだけの理由で私は「変身」を手に取った。

 

「変身」は救いのない話である。実のところ、初めて読んだとき私はその内容にあまりピンと来なかった。私の中にカフカという作家を受け入れる為の受容体が用意されていなかったのである。

 

 こいつは凄い作家だぞと思い始めたのは、その数年後、大学入ってからのことで、「城」を読んだ時だった。確か切っ掛けは伊藤計劃の「虐殺器官」の冒頭で引用されていたからではなかったか。

 雪の降る村で、城に入れないまま右往左往する主人公を見て、初めはいつになったら物語が展開するのかと退屈な思いをした。だがそうではなかった。カフカが書こうとしているのはこの「右往左往」そのものなのだ。そう気付いてから、一気に物語に引き込まれた。

 

 それから私は岩波文庫カフカの短編集を二冊読み、ついでに「変身・断食芸人」も読み、新潮社から出ている日記・手紙の一部翻訳と断片集を読んだ。広く浅く読んでいる私にしては、例外的にかなり集中して読んでいる作家と言えるだろう。そしてそのページを捲っている間は決まって、私はカフカの用意する迷宮をぐるぐると回り続けている。

 

 しばしば、書物は建築に例えられる。多くはその構成のしっかりした様を比喩的にそう表現するのだが、その点で言えばカフカの小説は砂の城である。絶えず崩れる砂の城を掻き分け、掻き分け、やがて小さな悲鳴と共に押し潰されてしまう。カフカの小説の大半はそんなものである。

 

 そんな訳で、新潮から新しく短編集が出たのだから、改めて買わない訳にはいかなかった。大半は読んだことのある作品だったが、忘れていたものも多く、新鮮な気持ちで読むことが出来た。そしてやはり、私は右往左往していたのである。

 

我が家にあるカフカたち。新潮の「変身」は実家に置いてきてしまった。
  • 粗筋

この物語はまるで本物の誕生のように脂や粘膜で覆われてぼくのなかから生まれて来た――。父親との対峙を描く「判決」、特殊な拷問器具に固執する士官の告白「流刑地にて」、檻の中での断食を見世物にする男の生涯を追う「断食芸人」。遺言で現行の償却を頼むほど自作への評価が厳しかったカフカだが、その中でも自己評価が高かったといえる15編を厳選。20世紀を代表する巨星カフカの決定版短編集。

 

  • 書評

「決定版」というだけだって、小品の選択に抜かりがない。「判決」、「流刑地にて」、「断食芸人」、「父の気がかり」、「万里の長城」……どれもカフカの短編と言えばこれと指名され得る、王道作品ばかりである。

 王道だからと言って、カフカの小説が易しい訳ではない。何が言いたいか分からず、混迷に誘われることもしばしばである。その混迷さえも楽しむのがカフカである、と知ったようなことを言う他ない。

 

 勿論、端から端まで何も分からないという訳ではない。例えば「掟の問題」という短編では、自身を支配する掟に関して言及される。初めは掟とは何かを問うていた筈なのに、そもそも掟なんてものは本当にあるのかとその存在自体を疑い始める。

 そうやってカフカは、絶えず提示される疑問によって、読者を砂の城へと潜り込ませるのである。何を言っているかは分かるが、何が言いたいのかが分からない。そういうことが頻繁に起こる。

 

 本編とは別に、編者解説で紹介されたクンデラの言葉が核心を突いている。

「彼はどんな内的動機が人間の行為を決定するのかとは問いません。それとは根底的に異なる問いを提出するのです。外的決定要因が圧倒的に強くなった結果、内的動機の意味がもはやなくなった世界にあって、人間にどんな可能性が残されているのか、という問いです」

 

 思えば、カフカにとっての不条理はいつも外部からの圧力として現れる。仮託されるのは父であるかもしれないし、仕事かもしれないし、或いはある日を境に虫になってしまうことかもしれない。

 恐ろしいことに、カフカの作品に登場する人物たちは、そうした現実を眼の前にしても悲劇的な叫びをあげることはない。そこに滲むのは悲しみではなく疲労の色である。

 

 だからと言って、無論それがカフカの内的描写を苦手としていることを意味するのではない。むしろ反対で、カフカほど人間の内面に通暁している作家はいないだろう。その通暁とは、無意味さに対しても同様である。

 

 降り注ぐ膨大な労力の前では、個人の胸の内など些事に過ぎない。カフカはそれを知り過ぎるほど知っていたのだ。だからカフカの登場人物は感傷的にならないのではないか? 感傷とは現実に対する反射的な反応であり、それ故にある意味では機械的である。むしろその後に訪れる諦念にこそ本質があるのではないか? まるでそう喝破しているようである。

 

 カフカの不条理は、作品の中の人間性を極めて克明に炙り出す。それと合わせ鏡になって、現実世界の理不尽も、我々に絶え間ない敗北を強いる。足を引きずってその痛みから逃れようとするとき、我々はカフカの書こうとしたものを見ることが出来るのである。

 

(ちなみにこちらは、「カフカ断片集」の書評です。表紙が対になっていて、並べたくなりますね)↓

【書評】カフカ断片集【カフカ】 - 羊を逃がすということ